酒田市の商業のはじまり。

[泉流寺]毎年4月15日の徳尼公の忌日(きにち)には、三十六人衆ゆかりの人々が集まり追善供養が営まれています。
酒田の発祥伝説として「徳尼公(とくにこう)伝説」がある。
徳尼公とは、奥州藤原秀衡(ひでひら)の妹・徳の前、あるいは後室・泉の方ともいわれ、文治5年(1189)に源頼朝によって藤原氏が滅ぼされた時、遺臣36騎と共に立谷沢に落ちのび、飯森山の麓に泉流庵を結んだ。そして、徳尼公没後、遺臣は地侍となって酒田湊を開き、その子孫が今に伝わる「酒田三十六人衆」になったと伝えられている。

三十六人衆としては、鐙屋(あぶみや)をはじめ二木家や本間家などが知られるが、このうち鐙屋は、井原西鶴の『日本永代蔵』に「北の国一番の米の買入、惣左衛門という名をしらざるはなし」と紹介される豪商であった。江戸時代中期の回船問屋は本町通りを中心に97軒、蔵には200万両分の物資が詰まっていたという。

そのほか、激しい時代の流れの中でも伝統を守り続けている家としては、鍛冶町で鍛冶職を続けている池田多四郎家、中町で海産物を商う越島三郎治商店、500年前に滋賀県から来て本町で薬屋を開き、現在、中町三丁目にある伊庭屋(いばや)薬局の川島家、同じく三丁目の萬谷商店も江戸期からの瀬戸物店で、越前屋以外にも越中屋・越後屋・近江屋・美濃屋・加賀屋など、出身地の屋号を持つ商店が直接、あるいは一旦出店を開き、その後店を張るなどした例が多かったのは、その進取の風土を語っており、伝統の系譜は今なお脈打っている。

旧商店会名 現在の組織
(協)中町中和会 市街地第一再開発準備組合
(協)大工町商耕会 中通り商店街振興組合
(協)桶屋町商進会
(協)鍛冶町商和会
中通り商店街振興組合
(協)上内匠町商興会
(協)中央通り協栄会
たくみ通り商店街振興組合
下内匠町商店街(振)
浜町商店街(振)
 大通り商店街振興組合

 戦後の発展、そして酒田大火。

市内の繁華街であるばかりでなく酒田、飽海地区商店街の中心として栄えてきた商店街が一夜にして灰燼と化したため、商店街の復興が酒田市復興の成否のカギとなった。

酒田市では、この商店街の復興を主体に、復興対策事務所を開設し、 復興のための相談と指導にあたり、条件を満たすために、既存の7つの商業組合を、中通り、たくみ通り、 大通りの各商店街振興組合に再編強化して商店街近代化推進協議会をつくり、新しい組織化が行われ、私たち中通り商店街ができました。

他の商店街とは大きく異なる、設立の経緯ではないでしょうか。

商店街の再編のため、アーケードが特徴的です。
~セットバックとショッピングモール~

中通り商店街の「3m」の歩道

防火建築と魅力ある商店街づくりの矛盾点にアーケードがあり、風雨の激しい酒田では、どうしてもアーケードが必要であるが酒田大火の経験から不許可になりました。
そこで、それに代わるものとしてセットバック方式(通りの店舗がいっせいに一階の一部分を引っ込めて 建築するもの。
つまり、引っ込んだ部分だけ二階以上が屋根がわりになってアーケードの役割を果たす。)を採用しようとしましたが、、一軒や二軒の問題ではなく、 ひとつの商店街、通りの両側全部の商店の問題だけに議論が沸騰、結果的には全員の賛成をえて、中通り商店街は市道から1.5m引っ込め、 ひさしを1.5m市道に出す(3mの歩道)になりました。
そしてその外側に2mの緑地帯、次いで5mの道路がある全国に例を見ない 酒田独特のショッピングモールで中通り商店街は完成しました。